父のお見舞いに旧友来る

父が不慮の事故でなくなりました。通夜や葬儀に列席および香典、花輪、お供物などを多数いただき感謝に堪えません。母も「91歳のこんな豪華な葬儀はない。ありがたいよ」といっていました。そんな折、旧友のマイウM氏とセジュールN氏がお線香あげさせてくれといってくださり訪問いただくことになりました。

父、加藤光宏
父、加藤光宏(カレーを食べる)
父、加藤光宏は昭和4年10月に生まれました。静岡高校(中)、静岡大学人文学部、国民金融公庫(現、日本政策金融公庫)から中小企業の経理部長などを経て、私の会社の経理を担当してくれていました。
幼いころのエピソードとしては、軍国少年で、陸軍の軍服を買ってほしくて店の前で座り込んだり、陸軍幼年学校を受験したり。実は父は幼いころに肋膜(結核の初期)をやっていて、その後遺症の影がレントゲンに写っていたため学科試験が通過しながらも不合格になったという経緯があります。また、その後、海軍幼年学校を受験して合格していた。終戦があと数年遅れていたらこの世にいなかったかもしれない。

父はとても健脚で、静岡高校のころ、自宅から、梅ヶ島(安倍川の上流部)から安倍峠を徒歩で越えて身延まで歩いてきた。

私が高校生のころ。友達を家に連れてきた。S君(茨城大→市役所)、K君(明治大→市役所)、D君(慶応大→鈴与→?)、Y君(京都大→国土交通省)、H君(大阪大→デンソウ)だったのですが、
彼らが帰った後「Yが一番、勉強ができるだろう」。私「なぜわかる?」。父「ああいう人相(ひとことでいうと牛のような)が一番頭がいい」。人物鑑定力は脅威でした。
それにしても、友人の進路を見れば、私が駄馬であることがわかるでしょ!

父の口癖は「おまえはつくづく運がいいな、お前より優秀な奴は相当見てきたが。これほど運のいい人は見たことがない」。確かに、たいして勉強ができたわけではない。人より秀でたものがあったわけではないのですがなぜかついている。金にも困らない。家庭にもコマならない。人にも困らない。常に素晴らしい人々に囲まれている。

私が最初の就職先(上場企業)を辞めて自宅に帰ってきたとき、「税理士試験を受けるなら応援するぞ」といってくれた。その後、税理士試験を受験し始めて2年で2科目合格したとき「もしかすると大輪の花がさくかもな」といってくれていました。結果、税理士にはなれなかったが中小企業診断士として独立。日本一の賞を二度とることができました。孫もかわいがってくれました。
20代後半のころ「おまえはな、大学に入ってもすごく勉強していたよな。社会人になっても毎年、何か資格試験を受けている。だから、脳神経が今になってつながってきたんだよ」と言われました。

父は、健脚があだになって、デイサービス施設のドアの閉め忘れの際に外に出て、川に落ちてしまったようです。なぜ高齢者施設なのに監視者がいなかったのか、コロナゆえドア解放は理解するとして、出入り口の施錠はなかったのか。即座にさがしてくれなかったのか。デイサービスには父の状態(方向感覚がない、外に出たがる)は伝えてあったのです(それゆえ、施設にお願いしたのです)。私も翌日、父が発見された場所の近くを捜索したのですがみつけられなかった。残念でなりません。

父に線香をあげに来ていただきました
父に線香をあげに来ていただきました。

友人のM君は元茶商でした。会社をM&Aで売ったらしく悠々自適です。M君は中学三年生のときに出会いました。新光明寺の経営する寺宿に同じ日に入塾しました。その後、静岡県立静岡東高校に入学。
また、弓道部も同じ。私は理系で一浪のあと芝浦工業大学、彼は現役で法政大学へ。まったく進路も違ったのですが、facebookがご縁で35年ぶりくらいに再会。現在にいたります。

N氏は静岡美味い寿司を食べる会がご縁。

いずれにしても、困ったときに、あるいは失意の時に勇気づけてくれる方、手を差し伸べてくださる方々が多数いてくださるのが私の人生。ありがたいことです。M君、N氏は関与先スプレモのコーヒーをドリップして2時間世間話をして別れました。